|
|
岩城亀田藩概要: 関ヶ原の戦いで東軍に組した最上義明は本領に加えて庄内地方を由利地方が加増され57万石という大大名となり、由利地方には4万石で楯岡満茂が配されました。元和8年(1622)に最上家が御家騒動により改易になると由利郡は本多正純が5万5千石で入封される事になりましたが、正純が固辞した為、翌元和9年(1623)に改易となり久保田藩佐竹家の預かりの身となりました。代わって信濃川中島藩から岩城吉隆が2万石で入封し亀田藩を立藩し、以後、明治維新まで岩城家が代々藩主を歴任しました。岩城家は平家の流れを汲む名族で戦国時代には陸奥国岩城郡12万石の大名でしたが隣接する佐竹家に従属する事となり佐竹義宣の実弟である貞隆が岩城家の当主となっていました。関ヶ原の戦いで本家の佐竹家に連座し改易となりましたが、他の佐竹与力大名が秋田に移る中、幕府に働きかけ独立の道を探り、大坂の陣で功を挙げた事で川中島藩1万石の大名に復権しました。2代吉隆の代に亀田藩2万石に加増移封となり、さらに、吉隆が久保田藩初代藩主佐竹義宣の甥に当たる事から久保田藩2代藩主として迎え入れられました。亀田藩2代藩主は同じく義宣の実弟で多賀谷家を継いで檜山所預になっていた多賀谷宣家が入り岩城家を継ぎ宣隆に改名しています。このように、隣接する久保田藩とは関係が深く事実上支藩のような扱いを受けましたが、時代が下がると藩境争いが起きるなど独立性が強くなり6代藩主を伊達家から迎え入れた事で一層顕著となりました。戊辰戦争の際は当初奥羽越列藩同盟に参加しましたが、後に久保田藩、本荘藩、矢島藩、新庄藩と共に新政府軍に組みした為、庄内藩の侵攻を許し降伏、しかし、会津藩が新政府軍に敗れると庄内藩も降伏し結果的に敗戦組として戦後処理されました。
スポンサーリンク
岩城亀田藩歴代藩主
| 藩主名 | 藩主年間 | 石高 | 備考 |
初代 | 岩城吉隆 | 1623〜1628年 | 2万石 | |
2代 | 岩城宣隆 | 1628〜1656年 | 2万石 | |
3代 | 岩城重隆 | 1656〜1704年 | 2万石 | |
4代 | 岩城秀隆 | 1704〜1718年 | 2万石 | |
5代 | 岩城隆韶 | 1718〜1745年 | 2万石 | |
6代 | 岩城隆恭 | 1745〜1782年 | 2万石 | |
7代 | 岩城隆恕 | 1782〜1810年 | 2万石 | |
8代 | 岩城隆喜 | 1810〜1853年 | 2万石 | |
9代 | 岩城隆永 | 1854〜1855年 | 2万石 | |
10代 | 岩城隆信 | 1855〜1855年 | 2万石 | |
11代 | 岩城隆政 | 1855〜1861年 | 2万石 | |
12代 | 岩城隆邦 | 1861〜1869年 | 1.8万石 | |
11代 | 岩城隆彰 | 1869〜1871年 | 1.8万石 | |
|
|
|
|
|
|
|